4〜10月に読んだ本 其の一

ここ数か月ほど、読んだ本のタイトルを控えたり、感想を書き留めておいたりすることをすっかり怠ってしまっていた。
そうしていると読書生活があまりに漫然と流れていってしまうし、そもそも内容は愚か、読んだことすらすぐに忘れてしまう。
あんまり不毛なので、何回かにわけて適当に書いておこうと思う。

まずはタイトルを思い出せる範囲で列挙しておく。自分でも驚くほど無軌道な読み方をしている。

●帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』
立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』
和久井健『東京リベンジャーズ』(1〜28)
●芥見下々『呪術廻戦』(1〜15)
しげの秀一『イニシャルD』(アニメシリーズ)

水木しげる水木しげるの古代出雲』『妖怪大裁判―ゲゲゲの鬼太郎1』『妖怪軍団―ゲゲゲの鬼太郎2』妖怪大戦争ゲゲゲの鬼太郎3』

横溝正史犬神家の一族
北方謙三『風樹の剣』
辻堂魁風の市兵衛
松本大洋竹光侍』(1〜8)
漆原友紀蟲師』(1〜10)
●澤田晃宏『ルポ 技能実習生』
シュリンク『朗読者』
●ラヒリ『停電の夜に』
養老孟司バカの壁
●金井真紀『虫ぎらいはなおるかな?』
渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』
●ソン・ウォンピョン『三十の反撃』
●山本和博『大都市はどうやってできるのか』

 


帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』
問題解決能力(ポジティブ・ケイパビリティ)とは対極にある人間の能力としての「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念を提唱する本。ネガティブケイパビリティとは一言でいうと、問題をすぐには解決しない能力、性急な結論を求めず耐え抜く能力である。そもそも世の中で問題とされていることのほとんどが簡単には解決できないことばかりなのだし、白か黒かで語れる真実などほとんどないにも関わらず「問題解決能力」ばかりを求める社会のほうが阿呆なのである。僕自身は、大学院にいたときに、誰からだったか「すぐに答えの出る問いは、たいてい大した問いではない」「わからないことを『わからない』という箱の中に入れておくことが大事」という言葉を聞いたが、これはまさにネガティブ・ケイパビリティの大切さを言ったものだったろう。
なにも研究者に限らず、これからはそういう前提のもとに物事に取り組んでいかないと万事上手くいかないだろうから、ネガティブ・ケイパビリティという提案は素晴らしいと思い手に取ったのだった。ただ、著者が言葉の定義をちゃんとやらないので、イギリスの詩人キーツがそのような言葉を初めて用いたこと(1章)、精神科医ビオンがそれを評価したこと(2章)という事実をまとめあげたことの他にはさして説得力のある立論はみられず、あまり良い本とは思えなかった。とても大事なテーマなのに、しばしばある「タイトルが一番面白い本」になっているのは非常にもったいない。この著者でなくとも、誰かがもっとこのテーマについて科学的に(特に、哲学的に)書いてくれることを願う。

 

立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』
江戸時代のことを集中的に調べたいと思っていて、本の読み方を改めて確認するために読んだ。「金を惜しまず本を買え」「1つの本だけでなく複数の類書を読め」「ノートはとらずさっさと読め」「大学で得た知識などいかほどのものでもない」

 

芥見下々『呪術廻戦』

和久井健『東京リベンジャーズ』
鬼滅の刃』が面白かったので、俺も流行を追ってみよう!と思い、いずれも読んだ当時の最新刊まで一気読みしたのだった。
呪術は、ハンターハンターの念能力バトルの説明をより精緻にしたような説明が続く「仕組みの漫画」だと思った。その説明の詳しさ、しつこさはこれまでのバトルマンガを広く熱心に読んできた読者を満足させるのかもしれないが、僕のようなにわか漫画ファンには難しかった。また、そのことの副作用でもあるのかもしれないが、登場人物の行動の動機や感情の描写、異なる価値観を持つ者同士がぶつかるというようなドラマ性が乏しく、全般的に退屈だった。
東京リベンジャーズは、「日和ってるやついる? いねぇよなぁ!!?」という有名なセリフがいつ出るかと楽しみにしながら読み始めた。序盤でこのセリフが出るあたりは確かによかったのだが、他に精彩を放つセリフはなく、ストーリーも以下に書くような理由で期待外れだった。
この漫画はいわゆる「ヤンキーもの」と「タイムリープもの」を組み合わせた漫画である。東京卍會という暴走族チームの抗争を描いているのだが、登場人物がみな「正しすぎる」ことにずっと違和感があり、そこに物足りなさを感じる。もっとどうしようもないことで粋がったり、不毛な争いに傷ついたり、若いエネルギーを悪い意味で浪費させたりするリアルなヤンキーが僕は見たかった。
思うに、この白々しいまでの「正しさ」の理由は2つある。1つは、今の潔癖なまでに倫理的であろうとする社会でヤンキー漫画をヒットさせるためには、ヤンキーをマイルド化させないと受け入れられないという商業的理由である。これはまあ、そういうものかと一応飲み込んでおこう。
もう1つは、タイムリープものというジャンルの制約ではないかと僕は考えた。タイムリープというのはいうまでもなく時間を遡行するという条理をねじ曲げる奥の手である。本来やっちゃダメなことだ。だから、それなりの正当な理由がないとタイムリープしてはいけないのである。「正しくないタイムリーパー」が何度も何度も同じ時間を行ったり来たりする過程に付き合わされるのは、勘弁である。
だから主人公は「元カノの命を救うため」「東京卍會を健全なヤンキー集団に戻すため」という、倫理的な、正しい理由でタイムリープを繰り返す。この大枠の正しさがもうヤンキー的ではないから、どうやっても「ヤンキー漫画としては過剰に倫理的」になってしまうのだ。ヤンキー的なるものは正しいことも間違ってることもひっくるめて臆せず前に進もうとする、生の一回性の中でしか顕現しないのである。

 

しげの秀一『イニシャルD』(アニメ)
これは本ではなくアニメで一気に観て、原作はまだ読めていないのだが、東京リベンジャーズのことを書いたので書いておかねばなるまい。東京リベンジャーズに求めたヤンキーのどうしようもなさ、哀しさを完全に表現できているのがこの作品だからだ。
公道で、反対車線に大きくはみ出しながらドリフトをしてレースをするという危険な犯罪行為に地道をあげる若者たちに「正しさ」などあるはずもない。しかし不思議と、一回きりの人生を極限まで使い尽くそうと試みている登場人物たちの姿に羨望を覚えてしまうのである。
クルマに興味のないタクミが、自分の意思に反して「夜の峠レース」という異界に引きずり込まれ、秘められた才能を開花させ王になっていくというツボを全て抑えたプロットも素晴らしいが、それ以上に特徴的なのはそのセリフ回しである。
「1万1千回転まできっちり回せ!」「クソッタレが!セカンダリータービン止まってんじゃねーのか!!」「ハチロクなんかに乗っている奴はアウト・オブ・眼中」「オレはロータリーエンジンの血脈に脈々と流れ続けている、孤高のスピリッツが好きなんだ」「峠で速い奴が一番かっこいいんだ!イケてるぜ」
(ネットでまとめられていた名言集より適当に抜粋 https://soul-brighten.com/initiald/
登場人物たちはしばしば、峠の狭小な道路において危険走行の伎倆を競わせながら、意味のわからない・非知性的な・どこか常規を逸しているセリフを連発する。そのたびに僕は「こいつらは一体、何を言ってるんだ?脳のシナプスが焼き切れているとしか思えないよ」と怖れながら、しかし心の奥底ではこれらの言葉たちに興奮させられ、奇妙な感動を禁じ得ないのである。
頭文字Dの世界は「言葉」でつくられていると僕は思う。
思うに、この作品のセリフ回しは「独白」という言葉のスタイルを武器にしているのだ。作品の特性上、お互いに車に乗って勝負をするから直接言葉を交わすことはできず、いきおい登場人物の心の声が連ねられることになる。この作品の肝となるレースシーンでは、会話ではなく独白の連続によって言葉が紡がれる。
会話というのはしばしば冗長だ。気の弱い僕らは「相手になんらかの応答をして会話を成立させること」自体をしばしば自己目的化してしまい、だから言葉は交換されているはずなのに、本当に言いたかったことを相手に伝えられない。本来の意味でのコミュニケーションが実現しない。
頭文字Dの言語空間は、そのような繊細なものではない。

言いっ放しでいい。

一瞬の勝負にこだわり抜く者が、(なぜか)ユーロビートをBGMに「独白」というスタイルを最大限利用して矢継ぎ早にパワーワードを放り投げる。それぞれの独白が交わって「対話」が成立しているかのように見えることもあるが、それを確かめる術もないままに勝負は決する。

異様ともいえる緊張と興奮を際限なく喚起するその作劇手法はほとんど麻薬的である。