4〜10月に読んだ本 其の一

ここ数か月ほど、読んだ本のタイトルを控えたり、感想を書き留めておいたりすることをすっかり怠ってしまっていた。
そうしていると読書生活があまりに漫然と流れていってしまうし、そもそも内容は愚か、読んだことすらすぐに忘れてしまう。
あんまり不毛なので、何回かにわけて適当に書いておこうと思う。

まずはタイトルを思い出せる範囲で列挙しておく。自分でも驚くほど無軌道な読み方をしている。

●帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』
立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』
和久井健『東京リベンジャーズ』(1〜28)
●芥見下々『呪術廻戦』(1〜15)
しげの秀一『イニシャルD』(アニメシリーズ)

水木しげる水木しげるの古代出雲』『妖怪大裁判―ゲゲゲの鬼太郎1』『妖怪軍団―ゲゲゲの鬼太郎2』妖怪大戦争ゲゲゲの鬼太郎3』

横溝正史犬神家の一族
北方謙三『風樹の剣』
辻堂魁風の市兵衛
松本大洋竹光侍』(1〜8)
漆原友紀蟲師』(1〜10)
●澤田晃宏『ルポ 技能実習生』
シュリンク『朗読者』
●ラヒリ『停電の夜に』
養老孟司バカの壁
●金井真紀『虫ぎらいはなおるかな?』
渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』
●ソン・ウォンピョン『三十の反撃』
●山本和博『大都市はどうやってできるのか』

 


帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』
問題解決能力(ポジティブ・ケイパビリティ)とは対極にある人間の能力としての「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念を提唱する本。ネガティブケイパビリティとは一言でいうと、問題をすぐには解決しない能力、性急な結論を求めず耐え抜く能力である。そもそも世の中で問題とされていることのほとんどが簡単には解決できないことばかりなのだし、白か黒かで語れる真実などほとんどないにも関わらず「問題解決能力」ばかりを求める社会のほうが阿呆なのである。僕自身は、大学院にいたときに、誰からだったか「すぐに答えの出る問いは、たいてい大した問いではない」「わからないことを『わからない』という箱の中に入れておくことが大事」という言葉を聞いたが、これはまさにネガティブ・ケイパビリティの大切さを言ったものだったろう。
なにも研究者に限らず、これからはそういう前提のもとに物事に取り組んでいかないと万事上手くいかないだろうから、ネガティブ・ケイパビリティという提案は素晴らしいと思い手に取ったのだった。ただ、著者が言葉の定義をちゃんとやらないので、イギリスの詩人キーツがそのような言葉を初めて用いたこと(1章)、精神科医ビオンがそれを評価したこと(2章)という事実をまとめあげたことの他にはさして説得力のある立論はみられず、あまり良い本とは思えなかった。とても大事なテーマなのに、しばしばある「タイトルが一番面白い本」になっているのは非常にもったいない。この著者でなくとも、誰かがもっとこのテーマについて科学的に(特に、哲学的に)書いてくれることを願う。

 

立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』
江戸時代のことを集中的に調べたいと思っていて、本の読み方を改めて確認するために読んだ。「金を惜しまず本を買え」「1つの本だけでなく複数の類書を読め」「ノートはとらずさっさと読め」「大学で得た知識などいかほどのものでもない」

 

芥見下々『呪術廻戦』

和久井健『東京リベンジャーズ』
鬼滅の刃』が面白かったので、俺も流行を追ってみよう!と思い、いずれも読んだ当時の最新刊まで一気読みしたのだった。
呪術は、ハンターハンターの念能力バトルの説明をより精緻にしたような説明が続く「仕組みの漫画」だと思った。その説明の詳しさ、しつこさはこれまでのバトルマンガを広く熱心に読んできた読者を満足させるのかもしれないが、僕のようなにわか漫画ファンには難しかった。また、そのことの副作用でもあるのかもしれないが、登場人物の行動の動機や感情の描写、異なる価値観を持つ者同士がぶつかるというようなドラマ性が乏しく、全般的に退屈だった。
東京リベンジャーズは、「日和ってるやついる? いねぇよなぁ!!?」という有名なセリフがいつ出るかと楽しみにしながら読み始めた。序盤でこのセリフが出るあたりは確かによかったのだが、他に精彩を放つセリフはなく、ストーリーも以下に書くような理由で期待外れだった。
この漫画はいわゆる「ヤンキーもの」と「タイムリープもの」を組み合わせた漫画である。東京卍會という暴走族チームの抗争を描いているのだが、登場人物がみな「正しすぎる」ことにずっと違和感があり、そこに物足りなさを感じる。もっとどうしようもないことで粋がったり、不毛な争いに傷ついたり、若いエネルギーを悪い意味で浪費させたりするリアルなヤンキーが僕は見たかった。
思うに、この白々しいまでの「正しさ」の理由は2つある。1つは、今の潔癖なまでに倫理的であろうとする社会でヤンキー漫画をヒットさせるためには、ヤンキーをマイルド化させないと受け入れられないという商業的理由である。これはまあ、そういうものかと一応飲み込んでおこう。
もう1つは、タイムリープものというジャンルの制約ではないかと僕は考えた。タイムリープというのはいうまでもなく時間を遡行するという条理をねじ曲げる奥の手である。本来やっちゃダメなことだ。だから、それなりの正当な理由がないとタイムリープしてはいけないのである。「正しくないタイムリーパー」が何度も何度も同じ時間を行ったり来たりする過程に付き合わされるのは、勘弁である。
だから主人公は「元カノの命を救うため」「東京卍會を健全なヤンキー集団に戻すため」という、倫理的な、正しい理由でタイムリープを繰り返す。この大枠の正しさがもうヤンキー的ではないから、どうやっても「ヤンキー漫画としては過剰に倫理的」になってしまうのだ。ヤンキー的なるものは正しいことも間違ってることもひっくるめて臆せず前に進もうとする、生の一回性の中でしか顕現しないのである。

 

しげの秀一『イニシャルD』(アニメ)
これは本ではなくアニメで一気に観て、原作はまだ読めていないのだが、東京リベンジャーズのことを書いたので書いておかねばなるまい。東京リベンジャーズに求めたヤンキーのどうしようもなさ、哀しさを完全に表現できているのがこの作品だからだ。
公道で、反対車線に大きくはみ出しながらドリフトをしてレースをするという危険な犯罪行為に地道をあげる若者たちに「正しさ」などあるはずもない。しかし不思議と、一回きりの人生を極限まで使い尽くそうと試みている登場人物たちの姿に羨望を覚えてしまうのである。
クルマに興味のないタクミが、自分の意思に反して「夜の峠レース」という異界に引きずり込まれ、秘められた才能を開花させ王になっていくというツボを全て抑えたプロットも素晴らしいが、それ以上に特徴的なのはそのセリフ回しである。
「1万1千回転まできっちり回せ!」「クソッタレが!セカンダリータービン止まってんじゃねーのか!!」「ハチロクなんかに乗っている奴はアウト・オブ・眼中」「オレはロータリーエンジンの血脈に脈々と流れ続けている、孤高のスピリッツが好きなんだ」「峠で速い奴が一番かっこいいんだ!イケてるぜ」
(ネットでまとめられていた名言集より適当に抜粋 https://soul-brighten.com/initiald/
登場人物たちはしばしば、峠の狭小な道路において危険走行の伎倆を競わせながら、意味のわからない・非知性的な・どこか常規を逸しているセリフを連発する。そのたびに僕は「こいつらは一体、何を言ってるんだ?脳のシナプスが焼き切れているとしか思えないよ」と怖れながら、しかし心の奥底ではこれらの言葉たちに興奮させられ、奇妙な感動を禁じ得ないのである。
頭文字Dの世界は「言葉」でつくられていると僕は思う。
思うに、この作品のセリフ回しは「独白」という言葉のスタイルを武器にしているのだ。作品の特性上、お互いに車に乗って勝負をするから直接言葉を交わすことはできず、いきおい登場人物の心の声が連ねられることになる。この作品の肝となるレースシーンでは、会話ではなく独白の連続によって言葉が紡がれる。
会話というのはしばしば冗長だ。気の弱い僕らは「相手になんらかの応答をして会話を成立させること」自体をしばしば自己目的化してしまい、だから言葉は交換されているはずなのに、本当に言いたかったことを相手に伝えられない。本来の意味でのコミュニケーションが実現しない。
頭文字Dの言語空間は、そのような繊細なものではない。

言いっ放しでいい。

一瞬の勝負にこだわり抜く者が、(なぜか)ユーロビートをBGMに「独白」というスタイルを最大限利用して矢継ぎ早にパワーワードを放り投げる。それぞれの独白が交わって「対話」が成立しているかのように見えることもあるが、それを確かめる術もないままに勝負は決する。

異様ともいえる緊張と興奮を際限なく喚起するその作劇手法はほとんど麻薬的である。

1〜3月に読んだ本

読んだ順番などはばらばらに記していく。


というのも、もともと読んだ日付と書名をきちんとノートに記録していたのだが、今年に入ってからは多忙と無精によりそれをまったく怠っていたのだ。
わざわざ記録などしなくても気ままに読めばいいさと思っていたのだが、案外と不都合の生じることがここ3か月でわかってきた。


1つは、読んだ本の内容はおろか、なんの本を読んだかということ自体をすっかり忘れてしまうということだ。これは特に説明を要しない。

もう1つは、読書傾向がどんどん乱脈に流れていくということだ。ある1つの目的をもって継続的に読書を続けていくということがしにくくなる。

もちろん、純粋に気散じのために本を読んでいるだけならそれでまったく構わないのだが、今年は小説を1本完成させるという目標を達成したいので、ある程度読書のメタ認知が必要だと感じている。

 

司馬遼太郎『この国のかたち』1〜4
司馬遼太郎が小説の題材にしているのは、戦国、幕末、明治が多く、中世を描いた作品はとても少ない。『義経』は書いているがかなり尻切れトンボで終わってしまっている。が、このエッセイ集では中世のことをたくさん書いている。特に、鎌倉幕府を良い意味で「農民が樹立した政権」として非常に高く評価するくだりは面白かった。

 

◎ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons』
◎スローマン、ファーンバック『知ってるつもり 無知の科学』
★「人類よどこへ行く」系の本。特に後者がよかった。知識や記憶というものは個人の頭の中にあるのではなく、その大半はむしろ外部記憶装置としての社会とか、他者のほうにある。社会が複雑化すればするほど、そのことを自覚する必要があるよねという話。

 

北方謙三『草莽枯れ行く』
清水次郎長と、相楽総三というダブル主人公。特に冒頭の出会いのシーンが最高。「俺は丁目にしか賭けない」

 

トーベ・ヤンソンムーミン谷の彗星』『たのしいムーミン一家』
登場人物の誰一人として協調性というものがないのはすごい。とくにムーミンママがひどい。

同じ時期に作者の伝記映画『トーベ』も観た。これはレズカップルがひたすらくっついたり擦れ違ったりする映画であった。

 

林望訳『謹訳 平家物語』1〜4
◎兵藤裕己『琵琶法師』
白洲正子謡曲平家物語
木下順二子午線の祀り
近松門左衛門「出世景清」(新編日本古典文学全集76・近松門左衛門集3)
★アニメ版平家物語を観て、これが全然おもしろくなかったので「こんなはずでは……」と思い原作に手を出した。しかし、原作も期待したほどには面白いと思えず、僕の中の「平家物語ブーム」は意外にすぐ去ってしまったのだった。なぜ面白いと感じなかったのかについても一応見解がまとまっており、これは気が向いたら別途書くことにする。

 

◎高橋政史『頭がいい人はなぜ方眼ノートを使うのか』
◎Marie『箇条書き手帳でうまくいくバレットジャーナル』
★ノートの書き方を学びたいと思い、Kindle Unlimitedに入っている2冊を読んでみたところ、正反対のことが書かれていたのが興味深かった。要するにノートを「1つのテーマについて考えをまとめるために書く」のか、「自分の行動やとりとめもない考え、体調を記録しておくために書く」のかという目的の違いにより、適したまとめ方も異なるということなのだろう。

 

◎モニカ・ルーッコネン『マイタイム』
★上記の2冊と同じ日にKindle Unlimitedで流し読み。家族と時間を共有しながらも自分の時間を持ちましょうねという、それだけの本なのだが、非常によくまとまっていて有益だった。北欧人は「QOLを上げる地力」みたいなものが高いのだろうと感じる。

 

◎間川清『1年後に夢をかなえる読書術』
松岡正剛『多読術』

◎石黒圭『「読む」技術』
★読書ハウツーは定期的に手をとってしまう。このほかにもKindle Unlimitedで流し読みした本は何冊かあるが、内容を覚えていないので良くなかったのだろう。いいと思ったのは前1〜2冊めで、前者は「実用書を読んでそれを実行に移そう、小説? 暇なやつが読め俺は知らん」という潔さが素晴らしかった。後者はそれとは真逆のスタンスで、教養としての読書というものをこの本くらいちゃんと語っている本は意外と少ないと思う。
『読む技術』は本を読んでいるときに頭の中で何が起こっているか知りたくて買ったのだが、その点では期待はずれだった。この手の話は、むしろ近代文学の研究者とか評論家の書いたもので面白いものがあるような気がする。

 

◎岡西政典『新種の発見』
★新種の生物を発見したことのある生物学者が、新種の発見、分類、記述というプロセスを解説している本。新種の生物というのは毎年めちゃくちゃたくさん発見されているのだが、既存の生物とはどこがどう違っているのか記述するのはとても大変だということがわかった。生き物系の話もたまに読みたくなる。

 

◎ヤンシィー・チュウ『彼岸の花嫁』
「冥婚」(死者との結婚)をテーマにした長編小説。中国的な、あまりに中国的な幽霊(死者)の描き方が面白い。それも、舞台が本土(と著者が呼んでいる)中国ではなく、イギリス占領下マレーシアの華人コミュニティであるというところもユニークで素晴らしい。昔、中国人の友人に勧められて観た「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」という映画を思い出す。主人公のマインドがガーリーすぎてついていけないところは多々あったが、同じ著者で面白そうなテーマの小説が出たらまたぜひ読んでみたい。

 

伊藤比呂美切腹考』
ジャパニーズ・ハラキリ・カルチャーの話だと思ってずっと積んでいたのだが、読んでみたら全然そうではなく、エッセイ集であった。

お金を払って新聞を読むことにした話

朝日新聞の電子版を購読するようになった。

一番大きな理由は、ヤフーニュースのクソみたいなコメントを目にするのが嫌になったからだ。つい見てしまうのはお前の魂が不純だからだろうと言われれば返す言葉もないだが、とにかく有象無象の愚痴のような呪いのような言葉を自分の内側に取り込み続けるのは、ポテトチップスの大袋を毎日休みなく平らげるのと同じくらい健康によくないと思ったのだ。


コメントを読まなくて済むだけではなく、記事の質のこともある。

もちろん、「大手新聞社の新聞記事=良質」と無条件に言えるわけではないが、玉石混交のメディアから記事をかき集めてくる無料のキュレーションサイトを見るよりは、目にする記事の平均的なクオリティが上がるのは確かだ。これが大きな利点の1つである。


もう1つの利点は、記事の配列だ。これは実は、個々の記事のクオリティ以上に大切なことかもしれないとしばらく購読してみて実感するようになった。

どういうことか。

多くの無料のキュレーションサイトには「あなたへおすすめ」として自動で記事を配列するスペースがある。個々の利用者が読んでいる記事の傾向をAIが自動で判断して、その人の好きそうな記事を勝手に集めてきてくれるのだ。

一見とても親切そうだが、実はこれは大きな落とし穴だと考えている。この仕組みがあることで、いつの間にか「自分の見たい記事」だけを見るようになってしまうのだ。社会にとって本当に重要なニュースでも自分が無関心なら表示されない。

それに、これもお前の野次馬根性の問題だろうと言われてしまうかもしれないが、たまたま疲れているときに「宮迫の焼肉屋がめちゃヤバい」みたいなクソニュースを見ることで、AIが「宮迫のニュース関心ありますよねwww集めてきましたwwww」とでも言わんばかりに同様のクソニュースをわんさか集めてきてしまうのだ。それをまたつい見てしまうから、さらにクソニュースが再供給される……この繰り返し。

ユヴァルノア・ハラリ(『サピエンス全史』の著者)の『21Lessons』という本に、「ネットで無料で見られるものは大体クソ」という趣旨のことを繰り返し書いているが、僕だけでなく多くの人が似たようなことを感じ始めているのではないかと思う。


朝日新聞のサイトでは今のところこのようなアルゴリズムを導入していない、と思う。一部似たような仕組みを導入していたとしても、そもそも「朝日新聞が記事にするニュース」というフィルターがあるのでスポーツ新聞レベルのゴシップは排除される。

アルゴリズムを持ちいる代わりに、供給する側が大事だと思うニュースを並べている。これはまあ従来であれば当たり前だ。記事を並べるのも新聞社の仕事だ。

「情報発信側の意図が受け取り手の意図に先行する」という形は、ある意味で今日ではオールドスタイルになってしまった。

それにだって理由がある。インターネットが人々の希望を背負って登場したときは、この権威的なスタイルを打ち倒さなければならないという気持ちがみんなにあったのだと思う。「新聞は恣意的な情報ばかりだ。真実を取り戻せ」と。

しかし、その結果もたらされたことといえば、多くの人にとっては「ゴミみたいな情報に自分の注意や時間を奪われる」という情けない結果だった。


インターネットの自由な精神は、ここ十数年で矮小化してしまったと思う。受け取り手が自由に情報を享受できるということは、その受け取り手の不断の努力を前提にして初めて成り立つのだ。

しかも、特に近年ではインターネットが「稼げる」メディアとして急成長したことで資本主義に取り込まれ、もはや生半可な意識では抗えないほどに人々の注意を吸収する(いわゆるアテンション・ビジネスだ)機械になってしまった。このことはまた改めて書きたいと思う。


もちろん、不断の努力を続け、有象無象のクソニュースには目もくれず本当に良質だと思う情報を自分で選び抜いている人もいるだろう。しかし、そういう人はほんのひと握りだし、少なくとも僕はそうではなかった。

自分がクソニュースの海に飲まれそうになっていることを感じ、危機感を覚えたので、それよりもマシだと思って「金を払って新聞を読む」というオールドスタイルに敢えて戻ったわけだ。

雪と蜜柑とお屠蘇気分

今日は雪が降った。東京で積もるほど降ったのは、2〜3年前が最後だったろうか?

うちの隣家は農家で、窓を開けると畑一面、真っ白であった。

少し手を伸ばせば届きそうなところには蜜柑の樹が植わっている。橙色に色づいた実の上半分が雪をかぶっていて、ちょっと気の利いた文人画みたいな鄙びたいい景色だった。

こんな日はお屠蘇気分を延長して、熱燗で一杯やりたいものだ。

だが生憎といおうか、この正月はローソンの「100円おせち」のかまぼこにちょっとわさびをつけて、毎日酒を飲んでいたのだ。

食い飽きたのか飲み飽きたのかわからないが、もういいかなという気もしている。いやあ、新年、新年。

地方史のレッスン

自分の住んでいる自治体が『○○市史』という本を編纂・出版している。

ハードカバーの立派な造本なのだが一冊3,000円もしない。市役所で販売しているらしい。
近世編・近現代編・民俗編に分かれていて、このうちの近世編を買おうかどうか迷っている。
市のホームページで目次を見てみると、この辺りでいつから・どんな風に集落ができあがって、どのように発展していったかということが書かれているようだ。

なんだか『マインクラフト』みたいでわくわくするじゃないか。ゲーム脳特有の本末転倒ではあるが。
単純に自分の住んでいる土地の歴史を知りたいという興味もあるのだが、縁のある場所に限らずどこかの町の地方史を腰を据えて学んでみたいという気持ちを以前から抱いている。

そうすることで「土地に対する想像力」をやしなう練習をしたいのだ。
どういう階級の人がどれくらいの割合で居住していたのか。農民と役人の間はうまくいっていたのか、あるいは係争が絶えなかったのか。どんなものを生産していて、どういう経路でそれが流通していったのか。━━例えば、そういったことを詳しく知りたい。
時代小説を読んでいると、そういったディテールが豊かに描き込まれている作品はやはり面白い。それは単なる些末な知識の羅列ではない。むしろそういう風に土地に根づいた生活を細部まで描きこむことで、架空の登場人物のエモーションをありありと想像できるようになるのだろうと思う。
藤沢周平は、自分の故郷をモデルに「海坂藩」という架空の藩を創ってしまったし、横溝正史は「獄門島」をはじめ数々の呪われた土地の地形や歴史を見てきたかのように語った。
その万分の一でも、自分に土地に対する想像力があったならと思う。そういうわけで、地方史のレッスンをぜひはじめたい。

朗読上戸

酒に酔ったときの自分の悪癖のひとつに「朗読癖」があると最近気づいた。最近読んだ本の中で調子のいい一節などを思うまま声に出して読む。
司馬遼太郎の熱の入った文章など酔いにまかせて声に出すととても気持ちがいい。
大菩薩峠』も結構いい。なぜかですます調で書かれていて冗長なところも多く、悪文だという人が多いようだが、朗読してみると意外に名調子といえる一節も少なくないのだ。そして、あれは要するにもともと講談の調子なのだと気づく。
最近は岩波文庫の『声でたのしむ 美しい日本の詩』というアンソロジーを買ってきて、本来の編集意図どおりにこれを声で楽しむこともしている。詩はやっぱり声に出してみるといいものだなあと一杯調子で機嫌がよくなったりする。
この一連の行為は一人で勝手にやる分には罪もないだろうが、ほとんどの場合同席している人を巻き込んでしまうのがよくない。本人はいい気なものだが、聞かされるほうははっきり言って迷惑である。
なぜ恥ずかしげもなくこういう行為に及ぶのかというと、一つには酔うことで判断力が低下しているのだろう。いま一つには老化にともなって自意識とか羞恥心といったものが鈍麻しているのだろうと思う。
そう考えてみると、本質的にはカラオケで調子に乗って自他を顧みずアイドルソングを歌っていい気になっている中年男性の心性と変わるところがないのかもしれない。僕は緩やか酔っ払いカラオケおじさんになっていってるのかもしれない。そうして十年もするとビールが嫌いな令和の若者にウザがられて遠ざけられてしまうかもしれない。
一体どうすればいいのだろうか。

裏の幕末、「気」の幕末


僕が本好きになったのは、中学生の時に『竜馬がゆく』を読んだことがきっかけだった。だから幕末への興味はずっと持ち続けているのだけど、最近のように集中的に幕末ものを読むのは、その中学のとき以来のことかもしれない。

原点回帰のようなもので、本の読み方も小説の好みも、思えば20年間あまり変わっていないよなと確かめるように幕末ものを読み進めている。

だが、20年前とは明らかに変わったことがある。それは幕末という時代への接し方だ。以前は、どちらかというと表の幕末、「理」の幕末というものばかり見ていた。坂本龍馬西郷隆盛といった名のある人らがどのように新しい時代を創っていったかとか、尊皇攘夷というイデオロギーは一体どういう風に形成されていったかとかいう、いわば歴史的な叙述とされているものを真っ直ぐに追いかけ、理解しようとしていた。それで精一杯だったし、興味が満たされたのだ。

最近はむしろ、裏の幕末、「気」の幕末というべき視点からこの時代を考えることに興味を覚えるようになった。維新を成し遂げた人々を称賛する気持ちよりも、その大きな力に押しつぶされたり、変化する時代から取り残されたりする人々へ同情する気持ちのほうがより大きい。尊皇攘夷というイデオロギーよりも、もっと名前のつけづらい時代の「気分」のほうにより興味を惹かれる。

それは、『大菩薩峠』を読んではっきりと自覚できたことだが、この『草莽枯れゆく』も自分の最近の興味の傾向に合うものだった。

この小説には2人の主人公がいる。赤報隊を組織して新政府のために尽くしたにもかかわらず「偽官軍」の汚名を押し付けられた相楽総三と、時代が変わってもしょせん自分は変わりようのない最底辺のやくざ者だと自己規定する清水次郎長だ。

2人の織りなすドラマをみていると、歴史の進行上むしろ邪魔者扱いされてしまった人や、あまり直接歴史に寄与しなかったと思われる人のほうが、むしろその時代の空気とか気分を色濃く纏っていたような気がしてくる。そして、時代の移り変わりというものは旧から新へとより良くアップデートされるような、スマートに単線的に説明できるものではないということを肝に銘じなくてはならないと思う。

そういうことは中学生の時にはわからなかった。だいぶ時間は空いてしまったが、そんな風に一度順路からいった道を逆路からたどりなおすように、復習の読書を最近やるようにしている。