お金を払って新聞を読むことにした話

朝日新聞の電子版を購読するようになった。

一番大きな理由は、ヤフーニュースのクソみたいなコメントを目にするのが嫌になったからだ。つい見てしまうのはお前の魂が不純だからだろうと言われれば返す言葉もないだが、とにかく有象無象の愚痴のような呪いのような言葉を自分の内側に取り込み続けるのは、ポテトチップスの大袋を毎日休みなく平らげるのと同じくらい健康によくないと思ったのだ。


コメントを読まなくて済むだけではなく、記事の質のこともある。

もちろん、「大手新聞社の新聞記事=良質」と無条件に言えるわけではないが、玉石混交のメディアから記事をかき集めてくる無料のキュレーションサイトを見るよりは、目にする記事の平均的なクオリティが上がるのは確かだ。これが大きな利点の1つである。


もう1つの利点は、記事の配列だ。これは実は、個々の記事のクオリティ以上に大切なことかもしれないとしばらく購読してみて実感するようになった。

どういうことか。

多くの無料のキュレーションサイトには「あなたへおすすめ」として自動で記事を配列するスペースがある。個々の利用者が読んでいる記事の傾向をAIが自動で判断して、その人の好きそうな記事を勝手に集めてきてくれるのだ。

一見とても親切そうだが、実はこれは大きな落とし穴だと考えている。この仕組みがあることで、いつの間にか「自分の見たい記事」だけを見るようになってしまうのだ。社会にとって本当に重要なニュースでも自分が無関心なら表示されない。

それに、これもお前の野次馬根性の問題だろうと言われてしまうかもしれないが、たまたま疲れているときに「宮迫の焼肉屋がめちゃヤバい」みたいなクソニュースを見ることで、AIが「宮迫のニュース関心ありますよねwww集めてきましたwwww」とでも言わんばかりに同様のクソニュースをわんさか集めてきてしまうのだ。それをまたつい見てしまうから、さらにクソニュースが再供給される……この繰り返し。

ユヴァルノア・ハラリ(『サピエンス全史』の著者)の『21Lessons』という本に、「ネットで無料で見られるものは大体クソ」という趣旨のことを繰り返し書いているが、僕だけでなく多くの人が似たようなことを感じ始めているのではないかと思う。


朝日新聞のサイトでは今のところこのようなアルゴリズムを導入していない、と思う。一部似たような仕組みを導入していたとしても、そもそも「朝日新聞が記事にするニュース」というフィルターがあるのでスポーツ新聞レベルのゴシップは排除される。

アルゴリズムを持ちいる代わりに、供給する側が大事だと思うニュースを並べている。これはまあ従来であれば当たり前だ。記事を並べるのも新聞社の仕事だ。

「情報発信側の意図が受け取り手の意図に先行する」という形は、ある意味で今日ではオールドスタイルになってしまった。

それにだって理由がある。インターネットが人々の希望を背負って登場したときは、この権威的なスタイルを打ち倒さなければならないという気持ちがみんなにあったのだと思う。「新聞は恣意的な情報ばかりだ。真実を取り戻せ」と。

しかし、その結果もたらされたことといえば、多くの人にとっては「ゴミみたいな情報に自分の注意や時間を奪われる」という情けない結果だった。


インターネットの自由な精神は、ここ十数年で矮小化してしまったと思う。受け取り手が自由に情報を享受できるということは、その受け取り手の不断の努力を前提にして初めて成り立つのだ。

しかも、特に近年ではインターネットが「稼げる」メディアとして急成長したことで資本主義に取り込まれ、もはや生半可な意識では抗えないほどに人々の注意を吸収する(いわゆるアテンション・ビジネスだ)機械になってしまった。このことはまた改めて書きたいと思う。


もちろん、不断の努力を続け、有象無象のクソニュースには目もくれず本当に良質だと思う情報を自分で選び抜いている人もいるだろう。しかし、そういう人はほんのひと握りだし、少なくとも僕はそうではなかった。

自分がクソニュースの海に飲まれそうになっていることを感じ、危機感を覚えたので、それよりもマシだと思って「金を払って新聞を読む」というオールドスタイルに敢えて戻ったわけだ。