裏の幕末、「気」の幕末


僕が本好きになったのは、中学生の時に『竜馬がゆく』を読んだことがきっかけだった。だから幕末への興味はずっと持ち続けているのだけど、最近のように集中的に幕末ものを読むのは、その中学のとき以来のことかもしれない。

原点回帰のようなもので、本の読み方も小説の好みも、思えば20年間あまり変わっていないよなと確かめるように幕末ものを読み進めている。

だが、20年前とは明らかに変わったことがある。それは幕末という時代への接し方だ。以前は、どちらかというと表の幕末、「理」の幕末というものばかり見ていた。坂本龍馬西郷隆盛といった名のある人らがどのように新しい時代を創っていったかとか、尊皇攘夷というイデオロギーは一体どういう風に形成されていったかとかいう、いわば歴史的な叙述とされているものを真っ直ぐに追いかけ、理解しようとしていた。それで精一杯だったし、興味が満たされたのだ。

最近はむしろ、裏の幕末、「気」の幕末というべき視点からこの時代を考えることに興味を覚えるようになった。維新を成し遂げた人々を称賛する気持ちよりも、その大きな力に押しつぶされたり、変化する時代から取り残されたりする人々へ同情する気持ちのほうがより大きい。尊皇攘夷というイデオロギーよりも、もっと名前のつけづらい時代の「気分」のほうにより興味を惹かれる。

それは、『大菩薩峠』を読んではっきりと自覚できたことだが、この『草莽枯れゆく』も自分の最近の興味の傾向に合うものだった。

この小説には2人の主人公がいる。赤報隊を組織して新政府のために尽くしたにもかかわらず「偽官軍」の汚名を押し付けられた相楽総三と、時代が変わってもしょせん自分は変わりようのない最底辺のやくざ者だと自己規定する清水次郎長だ。

2人の織りなすドラマをみていると、歴史の進行上むしろ邪魔者扱いされてしまった人や、あまり直接歴史に寄与しなかったと思われる人のほうが、むしろその時代の空気とか気分を色濃く纏っていたような気がしてくる。そして、時代の移り変わりというものは旧から新へとより良くアップデートされるような、スマートに単線的に説明できるものではないということを肝に銘じなくてはならないと思う。

そういうことは中学生の時にはわからなかった。だいぶ時間は空いてしまったが、そんな風に一度順路からいった道を逆路からたどりなおすように、復習の読書を最近やるようにしている。