テクネーとポイエーシス

 詩人の伊藤比呂美さんと禅僧の藤田一照さんの対談本『禅の教室』を読んだ。

 

 

 仏教の話をかなり率直に語り合っているところも面白かったのだけど、一照さんがものの喩えとして挙げた古代ギリシャの「ポイエーシスとテクネー」の話がこの本の中ではとくに興味深かった。

 

 坐禅というのは技巧的に「上達」するのはダメで、いつまでも初心(うぶ)でなくてはならない。詩を作ることもそれは共通しているという話題で、一照さんがギリシャ語を持ち出してくる。

一照 良い詩を作る決まった方法があって、それを適用して詩ができるというようなもんじゃないですよね。良いとか悪いという話以前に、自ずとそうなるっていうところに妙味がある。
比呂美 坐禅はある意味、詩を書くのと同じようなことだと。
一照 うん。そうかもしれない。だって詩は頭から捻りだすんじゃなくて、どっかからやってきて生まれてくるんでしょ。ポイエーシスというギリジャ語があって、それはテクネーという言葉とペアになっているんだけどね。
比呂美 ポイエーシスとテクネー?
一照 テクネーはテクニックとかテクノロジーの語源ですよ。人間がさまざまな挑発や狡知を駆使して、自然に内在するものを外側に無理やり引っ張りだそうとする営みのこと。典型的なのが原子力の枝術でしょう。自然が原子核の中に隠しているエネルギーを突っついて引っ張り出して電気を起こして、文朋を発展させるために使っているわけだから。それに対置されているのがポイエーシスで、これが詩のポエムや詩人のポエットになるんだけど、ポイエーシスというのは、自然が自分の中に隠している豊かなものを、自発的に外に持ち出してくる働き。自然が内に隠しているものを惜しげもなく人間に差し出してくれる人間はそれをありがたく受け取って、そのおかげで生活が豊かになる。
たとえばそれは?
一照 植物の種が発芽しやがて自然に花が咲く。その花の美しさを人間が享受するというのなんかがその例です。果物や木の実もそうだし、農業ももともとはそうでしょう。でも、今は農業もテクノロジーになっているけれどね。遺伝子操作とかして。
比呂美 へえー。ポイエーシスってそういうことなんですか。
一照 だからギリシャの人たちは、詩というのは自分が作りだすものじゃなくて、自然が、美の神が分け与えてくれたものが、自分に届いて、自分を通して出てきているものととらえていたんです。技術で作り出すのは詩じゃないということですね。

  2人は、文学あるいは仏教の話をしているのだが、自分のなかでは、もっと広い文脈で最近よく考えていることにヒントを与えてくれる話だった。

 僕が最近考えていることというのは、人間というのは「人間だけの世界」にいる限り、ケチでつまらない精神生活しか送れないんではなかろうか、というようなことだ。狭い蟻塚のような場所にいて、良いだの悪いだのと一喜一憂している限りは、もれなく地獄に行き着いてしまうだろう、と。

 テクネーは「人間だけの世界」を切り開いてどんどん発達させる一方で、ポイエーシスは「自然に取り囲まれた世界」のなかの一動物としての人間の感覚や感情を留めてくれる。そういう2つのはたらきではないかと思った。

 

 だから、たぶん2つの働きは正反対でありつつも相補的なものだ。こういう文脈だと、どうしてもテクネーが悪者になりがちなのだが、少なくとも部屋にコンピューターが2台ある僕にはテクネーを断罪する資格なんてない。

 そもそも、テクネーを発達させなければ──遥か昔までさかのぼれば、火おこしを発明しなければ、ヒトは夜の恐ろしさを乗り越えることができなかったわけだから、反射的に「テクネーは悪だ! 自然に還れ!」と叫べばいいってもんではないはずだ。

 ただ、人間はテクネーで無理やり引っ張り出してきた成果物が与えてくれる快楽に酔ってしまうと、「ポイエーシスってコスパ悪くない? テクネーだけでOK」という判断を案外簡単に下してしまうのではないかということは、心に留めておきたいと思うのである。

 

 この、テクネーとポイエーシスの話は、哲学者のハイデッガーがテクノロジー批判のなかで持ち出した議論なのだそうだ。毎日坐禅をして、ハイデッガーを読んでというのは、かなり頼りになるお坊さんだなと感心してしまう。

 ちょっと手に負えないだろうが、とても大事な話だと感じているので、自分もそのハイデッガーの書いたものを探して読んでみたいと思っている。